雨はやまない

 
     
 


激しく降りしきる雨の下。
立ち尽くしたそこには、何もなく。
ただ、髪も額も頬も首も肩も全てを濡らし続けた。
傷つけたつもりはなかった。
責められもしなかった。
それでも、泣いていない顔が網膜に焼き付いている。
目を閉じても、開いても。
まだ、目の前に立っているような感覚が拭えない。
雨は強く地面を叩きつけていく。

「緑間っち」

名前を呼ぼうとしたけれど声にはならなかった。


***


その日は、いつもとなんら変わりはなかった。
部活の練習メニューは厳しくて、体力のほとんどを使い果たし、それでも青峰との1on1の勝負は別だと、3戦対決して全敗した。
黄瀬は立ち上がれないほど疲弊して体育館の床に寝転がった。
同じ練習をこなし、1on1をしたはずの青峰は「もっと持久力つけろよ」と、笑って先に帰って行った。
体格もたいして変わらないというのに、あの底なしのような体力はどうなっているのか。
これでもできる限り夜や早朝に走り込みをしているのにも関わらず、追いつけそうな気がしない。
一回り大きく見える背中を思い出すと、やっぱり悔しさと情けなさで胸がいっぱいになってしまう。
体育館の床を叩いて、目を閉じた。
冷たく硬い感触が汗で濡れた背中を冷やしていくと同時に、少しずつ思考も落ち着いていく。
青峰との1on1で、一人脳内で反芻し、反省する。

(あそこはもっと早く反応できた、はず)

抜かれる前のフェイントとターンも予測できていた。
その速さに追い付けなかったのは、ただの実力不足だ。
毎日、青峰のプレーを目にしているというのに、何ひとつ模倣できない。

(見ればできるはずなのに)

その凄さに打ちのめされ、憧れ、羨み、尊敬してしまう。
呼吸も整い、汗もひいて、あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
黄瀬がゆっくりと上体を起こすと、突如轟音と共に激しい雨音が体育館に響き渡る
雷鳴と豪雨。

「傘、持ってきてないんスけど」

思わず天井を見上げてしまう。
一人居残る静かな体育館は、屋根に打ち付ける雨の激しさと雷の音で一気に騒々しくなった。

「黄瀬、起き上がれるなら早く帰れ。ここはもう鍵をかける」

体育館の出入口に立っている緑間はすでに制服姿だった。
この時間まで自分を待っていたのかと、少しだけ申し訳ないような気がする。
黄瀬は言われるままに立ちあがったけれど、足が少しふらついた。
今日は本当に体力が残っていない。

「緑間っちは傘持ってるんスか?」

すれ違う時に笑って聞けば、溜息と共に用意されていたような答えが返ってくる。
雨が降ってきた時点で、こうなる事を予測していたのだろう。

「・・・途中まででもかまわないなら入れてやる」
「ラッキー。すぐ、着替えてくるっス」

薄暗い廊下を部室まで急ぐ。

(緑間っちは誰にでもこうなのかな)

いつも自分が最後まで残っている時は、時間を見計らって声を掛けてくる。
時にはタオルやドリンクを用意してくれる事もあった。
仕事の関係で最後まで残らない日もある。
そんな時、誰が最後まで居残っているのだろうか。
そして、その居残っている誰かにもこうして声をかけるのだろうか。

(鍵を預かってるんだから、そうなるんだろうな)

胸の奥が少しもやもやとした。
特別なのは自分だけじゃないとわかっていたけれど、わかっていなかったのかもしれない。
部室にも雨の音は激しく響いて、やむ気配など微塵もないようだ。

「黄瀬」

背後から呼ばれて、驚いて、背筋が伸びる。

「早くしろ。まだ動けないのか?」
「大丈夫っス」

慌てて制服に着替え、脱いだシャツをカバンに丸めて入れた。


***


ひとつの傘に二人並んで歩く。
雨脚は強く、足元はすぐにびしょぬれになった。
靴の中に浸み込んでくる冷たさを不快に思いながら、暗い道を外灯に向かって行く。
傘に響く雨音は一定のリズムを刻んで、沈黙が気まずくはならない。

「緑間っちはいつも最後まで残ってるんスか?」
「そうだな」
「なんで?」
「鍵を預かっていれば、気兼ねなく練習ができるからなのだよ。誰かに合わせて途中で切り上げなくてもいいからな」
「今日は?」

自分より先に制服に着替える時間があった。

「オレはいつもどおりだ。いつもより長かったのは、オマエだろう?」

傘からはみ出た肩が濡れて、冷たい。
きっと緑間も同じだろう。
ひとつの傘が標準より大きな体躯の二人を覆うのは到底無理な話だ。

「あー・・・」

先に練習を終えても自分の為にぎりぎりまで居残っていてくれる。
でもそれは、自分だけの為ではないのだ。

「緑間っちは誰でもいいんスよね?」

ふつふつと沸く良くない感情に色を付けるとしたら、きっと真っ黒に違いない。
副主将で、鍵の管理を任され、その生真面目さから目についたことを片っ端から注意していく。
常に説教をされているようなそれは、注意される理由がわかってはいるけれど、煩わしいと誰もが思っている。

(みんな、同じ扱いだから)

こうして傘に入れてくれるのも最後に残っていたのが自分だからだ。
他の誰かが残っていてもきっと傘に入れるのだろう。

「何がだ?」
「一緒に居てくれる人、探してるんでしょ?」

部活中は平等に扱う半面、それ以外は一人を好む。
きっとそれを寂しいと思わないのだ。
部活に関係なければ、自分を含めて誰の事も気にかけないだろう。

(バスケ部に入って、一軍になって、レギュラーになって、スタメンになって、やっと隣りに並べたのに)

緑間の目に自分は残らない。
それは、青峰に対して抱える憧れや羨望とは全く異なる感情だった。
ボールを持たずとも青峰は相手をしてくれる。
どんなに背中が大きく見えたとしても彼が振り返るのは、仲間として認めてくれている証拠だった。
わかりやすい態度で示されれば、素直に嬉しい。
自分も同じくらいの感情を返す事ができる。
緑間は違った。
一緒に居ても居なくても変わらない。
それは、まるでバスケをする為だけのパーツでしかないような気にさせられる。

(特別でもなんでもない・・・)

隣りをいつもよりゆっくりと歩くのは、傘をさしているからか。
疲労で動きの鈍い足にはちょうどいい。

「別に、一人でもいいのだよ。ただ、一人ではバスケができない」

緑間の一番はバスケで、それ以外はきっとみんな同じなのだ。
その他大勢に埋もれたくなくて必死に隣りに並んでも緑間にとっての特別にはならない事が、無性に悔しくて、苦しくて、黄瀬はその幼さも手伝って、自分を抑える事ができなくなった。

「やっぱり誰でもいいんじゃないんスか。バスケ部にさえいれば、誰でも。誰がどんなにがんばったって、オレがどんなに必死になったって、緑間っちには関係なくて。そんな奴とバスケしてもオレだって楽しくないんスよ」

ただの、独占欲の強い子供だった。
母親の気を引きたくて、物を壊すことしか思いつかないような。
ただの、幼い子供だった。
それが、どれほど相手を傷つけるのかなんて考える程の優しさを持ち合わせていなかった。
こっちを向いて欲しかっただけだったのに、もっと簡単な方法があったはずなのに、その時はそんな余裕はかけらもなかった。

「そうか」

緑間はそう言って頷いた。
白い外灯の下で見た緑間は、いつもと同じように無表情で、眼鏡の向こうの深緑色の瞳が何度か瞬きをする。
同じだけれど、同じではなかった。
緑間は持っていた傘を黄瀬に預けた。
震えていたのは、雨に濡れて冷えたからなのか。
冷たい指先が触れた。

「オマエの家の方が遠い。傘は晴れた日に返してくれればいいのだよ」

緑間はそう言って、黄瀬の前から姿を消した。
正確には、傘の下を出て、走って行ってしまったのだ。
声をかける隙もなかった。
そうかと言った緑間の声が響いている。
答え慣れているようだった。
ナイフで刺すよりも発した言葉がどれほど傷をつけるのか、自分も知っていたはずなのに。
黄瀬は、一人残された場所で呆然とする。

(傷つけた・・・)

取り返しのつかない事をしたと気付いたのは、緑間から傘を渡された時だ。
自分の手をそっと握った緑間は、微笑っていた。
口の端をほんの少しだけ緩めたその笑顔は、泣かれるよりももっと悲しい顔に見えた。
黄瀬は手にした傘を地面に落とし、ただ、その場で立ち尽くした。
周りが良く見えないくらいに激しく降る雨が、黄瀬を一気に濡らした。
緑間の姿は、もうどこにもなかった。



終わり



 
     
 

2012/10/23

 
     
 

帝光中学時代。2年生。
緑間くんを泣かせてみたくて書き始めたら、
たぶん、泣いたのは黄瀬くんだったかもしれない。
疲労で足がふらふらな黄瀬くんに、
歩調を合わせていた緑間くんのことに、
黄瀬くんはきっと気付かない。
そして、黄瀬くんが傷つけたと思っている緑間くんは、
実は全く傷ついてなくて、
そう言われるのは慣れてるくらいな。
そんな、続編を書きたいと思っております。